茨城県水戸市 浄土真宗大谷派 光円寺/墓地分譲・永代供養等承ります

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身近な仏教

身近な仏教

  • 生活の中で感じる仏教

    生活の中で感じる仏教

    昔は地域の行事やお祭りごとなど、生活のすぐそばにお寺がありました。昨今、時代の流れと共に仏教・お寺というものが皆様の生活から少しずつ遠のきつつあるように感じます。

    ここでは、みなさまにもっと仏教というものを身近に感じていただきたいと思います。

身近な仏教

日常生活の中の仏教語

日本に仏教が伝えられて約1500年です。
長い年月を経て仏教は私達の生活の中に馴染んできました。
実は何気なく話している私達の日常会話の中には、沢山の仏教語があるんです。

「流通、通達、開発、所得、投機、利益、施設、非行、方便、他力本願、四苦八苦。
さてこの中で仏教語はどれでしょうか?」と問われてたとしたら、皆さんどうお答えに
なるでしょうか。頭をかかえてしまうかも知れませんね。

どれもが私たちが日常よく使っている言葉です。
実はこれ、全て仏教語なんです。驚かれた方も多いと思います。
勿論仏教語としては、日常私たちが使っている読み方と違うものもあります。
仏教語では、流通は「るずう」、通達は「つうだつ」、開発は「かいほつ」、利益は「りやく」、
非行は「ひぎょう」と読みます。中には本来の意味とは違った使われ方をしているものも
あります。

例えば「他力本願」がその例の一つです。
他力本願というと、他人任せで自分では何も考えず行動しないといった悪いイメージで
使われます。勿論言語は生き物のように時代と共に変化して行くものですが、この
他力本願には本来の意味というか、もう一つの大切な意味があります。
それは、浄土真宗即ち親鸞聖人の教えの根幹の一つでもあります。
他力に対して自力と言う言葉があります。自力は他の力に頼らず自分の力で、
自分の力を信じて努力するといった意味です。


他に頼らず努力する事は、人生で必要な面でもあります。
しかし、努力するからには当然得られるものがあると思ってしまう落とし穴が隠されています。
努力が報われない時、私達は自暴自棄になったり、周りを責めたり他のせいにして怒ります。
努力しても報われない場合も必ずあるのです。

自力が届かない自力無効の世界もある。それに気づいて欲しいと言うのが親鸞聖人の
教えであり願いです。苦しい時、辛い時に初めて見えて来る景色・世界がある事に気づいて
欲しいと言う願いです。


少し古い話になりますが、北京オリンピックではソフトボール女子や水泳の北島選手の金メダルには
日本中が感激の渦となりました。努力の賜物と熱狂しました。一方で、レース直前の棄権や
優勝間違い無しと呼び声が高かった選手の予選敗退には厳しい目が向けられました。
勿論本番に向けての調整等の問題はあったでしょう。しかし4年に1度のチャンスに向けての
並み並みならない努力を続けて来た選手に対しては非情なコメントもあったように思います。

努力をしても報われないときもある。
それはその選手のせいではなく、正に自力無効の世界です。悔しい、残念だという思いは
確かに沸いて来ます。しかし、オリンピックの場では叶わなかっただけで、それまでの努力が
無駄だったという事にはならないのです。
本人も周りもそう思える事が、「他力本願」のこころに生きるという事なんですね。
他力は絶対他力とも言えます。つまり人の力、人知を超えた働きです。
本願は本当の願い。


本当なのかそうでないのか私達はいつも気になります。
その判断を人がしている範囲では、その人の価値観や人生観である時は全く正反対の
結果が出る事はしばしばあります。本願とは人知をこえた如来(阿弥陀如来)の願いを
いいます。苦しい時、辛い時に初めて見えて来る世界がある事に気づいて欲しいと言う
願いです。そして辛く苦しむ自分をまるごと包み支えてくれる働き、言わば宇宙の道理、
人間の力を超えたいのちの道理がある事に気づいて欲しいと言う願いです。

親鸞聖人はこの働きを「如来(阿弥陀如来)の本願力」と言って他力を表す言葉として
使われています。親鸞聖人は他力本願という使い方は殆どされていませんが、他力本願の
もう一つの意味と言いますか、本来の意味はこう言ったことなのです。

日常生活の中の仏教語