永禄10年(1567年)、斎藤左馬權守景忠の末孫景直が
出家し、空円景直と称して常陸国掘村(現在の水戸市
掘町)に一宇を建立したのが当山の開基です。
寺伝に依れば「開基空円法師、俗名は茨城郡斎藤氏
なり。その職、医にして万民を救う。永禄10年甲午歴、
親鸞聖人の流れを汲む某師に従って仏門に入り、遂に
出家得度し此の地に一宇を建立する云々」とあります。
江戸時代に入り、寛永2年(1625年)3代了讃の時に水戸市鍛冶町に移りました。
その後寛文六年(1666年)6代玄祢の時に光圀公の命により、酒門村に移転し現在に至っています。
新編常陸国誌の鍛冶町の記述によれば、「寺院に二つあり、一つは普門院(真言宗・・・)
一つは光圓寺(一向宗・・・)寛文6年共に破却となれり・・・」とあります。
いずれにせよ水戸藩の廃仏毀釈の嵐中、お寺を守り続けた歴代の
住職の苦労が偲ばれます。
現在の本堂は昭和9年6月に再建されたもので、昭和20年8月2日未明の
水戸空襲では、当時本堂に駐屯していた陸軍兵士の方々のおかげで
本堂への類焼を免れました。
本堂裏の二本の大きなモチの木の幹には、
今も焼夷弾の痕跡が大きく残っています。
このモチの木の姿からは、平和への無言の願いが伝わって参ります。